僕とスポーツ選手

僕個人のスポーツ選手との思い出を記します。

僕と浅尾拓也

2018年9月下旬  早朝でした。

 

中日ドラゴンズ  浅尾拓也  引退発表

 

まさしく寝耳に水で、

いや寝耳に氷水で一気に目が覚めました。

ただ、後で知りましたがドラゴンズファンの方々は薄っすらと、

そうなっては欲しくないなぁとは願いながらも覚悟はしていたようですね。

 

僕はドラゴンズファンではないので浅尾選手を見るのは年に数回程度でした。

特にここ数年は。

でも毎年見ていました。

理由は単純に好きなんです、浅尾選手が。

僕みたいな人、多いのではないでしょうか?

 

中日ファンではない。

浅尾選手のファンを名乗れるほど追っているわけではない。

でも、好き。

そんな方々。

 

僕はそうでした。

自分の中で思ったよりも浅尾選手の引退発表が重かったものですから

なんでだろう?と思って調べました。

そして色々な映像を見返したり残した記録やデータを見返してて思ったんです。

 

なんか、美しいんですよね。

 

そして儚い

 

 

男の僕から見てもキレイな顔立ちで、

一見華奢に見えるスラッとした身体から放たれる

美しい真っ直ぐと、絶望するような落ちる球。

 

凄く順風満帆に見えたプロ野球選手生活。

 

ただ、

怪我をした。

 

それも選手としてのアイデンティティを失うような大きな怪我。

 

それでもいつでも謙虚で、健気で。

「野球人・浅尾拓也」の期待には応えることが徐々に難しくなっていっても

「人間・浅尾拓也」の期待には絶対に、なにがあっても応え続けてくれた。

だから、僕みたいな中日ファン以外の人間でも

浅尾選手は好きになった。

 

復活して欲しい。

この人が報われる世の中であって欲しい。

 

そう思わせてくれるだけの何かが、浅尾選手にはあった。

それがスター性なのでしょうか。

僕、浅尾選手見てるとなんとなく、あの人思い浮かべるんです。

 

源義経

 

意味わからないのは百も承知なんですけど。笑

 

綺麗な顔立ちで(義経肖像画は決してカッコよくはない。僕の勝手な印象)、

優雅で、

味方のピンチに颯爽と駆けつけるヒーローで、

強烈に輝いたかと思えば、

若くして表舞台から去っていく…

 

義経も長生きをしていれば、鎌倉幕府はどうなっていたのだろう。

などと想像をかき立ててくれますが、浅尾選手も

 

あそこでケガをしなければ…!

あんなに酷使されなければ…!

 

なんて思ったりします。

ただ、僕や周りは「酷使」と言ってしまいますが、

本人はそれを

 

「信用して使ってくれることが、何よりも嬉しかった」

 

そう言って笑うんです。

 

どこまでカッコイイんですか!!

 

そういえば、昔トークショーかなんかに出てた時、

同い年の吉見選手が言ってたなぁ。

 

インタビュアー:「浅尾選手の悪いところ、直して欲しいところは?」

吉見選手:「ない。強いていうなら悪いとこがないところ。笑」

 

いや、彼女でも言わねーわ。笑

 

 

野球選手としてだけでなく、

人間としても尊敬したいと思わせて頂きました。

 

浅尾選手、

ありがとうございました!

 

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僕と小久保裕紀(2)

2003年  小久保裕紀  巨人へ無償トレード

 

プロ野球史上としてもそうですが、

スポーツ界において、これ以上摩訶不思議な移籍は今後もなかなかないのでは?と思っています。

今でこそ著書や、引退後のインタビューなどで語ってくれていますが

当時少年の僕は「大人の事情」などもよくわからないのでただただショックでした。

ホークスにおいて「4番」という重責を担っていたのもそうですが、

もっとも凄かったのが、チームメートや監督だけでなくファンからも「リーダーシップ」のある選手として認識されていました。

 

それはチームとして指針を失ったようなものでした。

 

恐らく沢山のホークスファン、選手がそうであったように、

僕も球団不信になりました。

 

だって小久保選手を出す意味が分からなかったから。

だってだって選手がV旅行を放棄してまで球団に異議を唱えていたから。

だってだってだってあの王監督がメディアに通して球団にあれだけ厳しいことを言ったから。

 

ファンは球団ではなく選手と共にある。

 

正しくその通りだと思います。

結果、僕はダイエー系列で買い物をしなくなりました。

 

いや、規模が小さい。笑

ただ当時の僕には精一杯の抵抗でした。

 

まぁそれでもホークスを応援し続けたんですよね。

巨人にいった小久保選手も。

だからやっぱり2006年のオフにもう一度ホークスに帰って来てくれた時は嬉しかったです。

 

それからはずっとホークスのキャプテンとして応援させて頂きました。

 

王監督最後の年が最下位で悔し涙を流していたこと

400本本塁打

日本シリーズ最年長MVP

2000本安打

引退直前の2打席連続ホームラン

現役最後の試合がまさかのノーヒットノーラン

クライマックスシリーズではホークスとファイターズ両軍による胴上げ

 

様々な感動シーンを見ることが出来ました。

ノーヒットノーランに関しては僕は笑っちゃましたね。なんかもう最後の方はノーヒットノーランの方が記憶に残るって、西投手を少し応援しましたもん。笑

 

そんな数々の名場面を作ってきた小久保選手ですが、

僕にはその中でもとても印象に残っているエピソードがあります。

(リアルタイムで見たわけではなく後で知ったのですが…)

 

小久保選手が未だ若手だったころ、

小久保選手のエラーが一因で負けた試合があり、試合後記者からそのエラーについて質問責めにあったそうです。最初は真摯に答えていたそうですが、若かった小久保選手は段々イラッとしてしまったそうで(誰だってありますよね、そんなこと。)

 

「僕にはこれが精一杯なんで」

 

と少し投げやりに答えました。

そうしたら翌日の新聞にそのまま小久保選手の言葉が掲載されてしまったみたいです。

そして、その記事を見た王監督がすぐさま小久保選手を呼び出し

 

「我々の仕事はファンに夢を見せる事だ。このような発言をすると、ファンは小久保裕紀という人間に対して夢を見ることが出来なくなる。今後二度とこのような発言はするな。」

 

と叱責したそうです。

それ以降王監督を野球人としてだけでなく、人間としても尊敬するきっかけになったそうです。

 

僕は有名人ではないので、人に夢を与えるとかそんな大層な目標を掲げたことはありませんが、

このエピソードを知って以降は

 

自分も信じてくれる人を裏切らないようにしたい。

自分を知る人間の期待には応えられるような人間でありたい。

 

そう思って今も邁進しております。

出来ているかは知りません。笑

ただ小久保選手に沢山の夢を見させてもらった身として、

最後までそれは貫いていきたいと思ってます。

 

 

小久保選手、

ありがとうございました!

 

 

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僕と小久保裕紀(1)

僕は福岡ソフトバンクホークスのファンです。

そのきっかけがこの選手でした。

 

キャプテン 小久保裕紀

 

初めてプロ野球を見るようになったのが1999年。

松坂大輔投手や上原浩治投手がプロ入りした年でした。

その1年で野球のルールや楽しさを覚えていきました。

そして、

 

1999年 日本シリーズ  ダイエー対中日

 

まず、日本シリーズというものがあるのを始めて知りましたね。

あと、パ・リーグ

 

当時はまだ地上波でも野球中継をしていましたが、そのほとんどが巨人戦でした。

ですので最初は巨人ファンでした。正確には巨人戦しか観たことがありませんでした。

 

ですので、日本シリーズパ・リーグとはなんぞや?から始まりました。

そこで惚れます。

 

第4戦で小久保選手がホームランを打つんです。

小久保選手は高い放物線を描く綺麗なホームランが多いことから、後にホームランアーティストとまで言われるようになります。

本当に今見ても惚れ惚れするようなホームランを打ってます。

それを見て惚れました。

 

ただ惚れたのは綺麗なホームランではなく、その後のバットを投げる仕草でした

 

当時、野球をかじり始めた程度の少年には小久保選手の綺麗なホームランの魅力などわからず、打ったあと放り投げるバットが綺麗でカッコよくて。

友達と野球して遊んだ時にはよく真似しました。

 

【小久保選手の綺麗なホームランとバット投げ】

https://youtu.be/6fiZ0C4tonw

 

そこからですね。

小久保選手を知り、ダイエーホークスというチームを知り、今でも好きで応援してます。

こうして振り返ると僕はバット投げから入ったのですね。笑

ずっと応援していたものですから、

2003年のオープン戦で小久保選手が怪我をしてしまって1年間の欠場を余儀なくされた時はショックでした。

ただ、結果として2003年はプロ野球史にも残るほどの結果をダイエーホークスは出しました。

 

その名もダイハード打線

詳細は長くなるので省略しますが、とにかくビックリするくらい打つんです。

で、ただ打つだけじゃないんです。勝負強いんです。

そして、まぁ走りもするんです。

そしてそして、投手も投手三冠とかやるようなエースがいたんです。

 

まぁとにかく強かった。

あまりにも強かったので友達と野球ゲームをする時はダイエー禁止でした。

 

そして禁止と言われる度に僕は決まって、

「更にウチには小久保がいるんだからな!?4番がいねーのにこの強さだぞ!?」

と、お前はどの立場で喋ってんだ?というようなことをドヤ顔で言っていたのを覚えています。

 

 

ですので、あの事件は凄くショックでした。

 

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僕と赤星憲広(3)

僕がどれだけ怠惰な生活をしていたとしても時間は流れます。

そして、

 

2010年  プロ野球開幕

 

始まれば結局見るんです。

結局好きなんです。

 

ただ、やはり最初は阪神戦を見ると虚しさしかありませんでした。

だって赤星選手がいないんですもの。

それでも、日々また野球を見ていたら、ある選手のおかげもあって(いずれ書きたいと思います)

赤星選手の引退会見を見ようと決意しました。

 

赤星選手が引退会見をした約半年後ですね。

当時ニートを深めていた僕は、日々野球ゲームで「赤星無双」をして楽しんでるような

完全な現実逃避型のニートでした。

 

将来のことも何も考えてなかったですし、目的意識もなかった僕は

自分の不幸(この程度のことを不幸というと言葉が違う気がしますが、当時はそう思っていました。)を世の中のせいにして自分を磨く努力などしてはいませんでした。

そんな僕に対し(決して僕に向けた言葉ではないが…)赤星選手ははこう言いました。

 

「ケガさえなければ、来年以降もまだまだプロの世界でやっていける自信はあります。ただ、医者に次同じことをしたら不随になるか、最悪死ぬ恐れがあると言われました。そう言われて自分の中で

〈グラウンドで死ぬのが本望か?〉

と問いたら、

〈本望です〉

と言えない自分がいた。やっぱり死ぬのは怖い。

その恐怖を抱えながらプレーをするとなると、どうしてもある程度、力を抜きながらプレーをしなければならなくなる。

そう思った時、プロのアスリートとしてファンの前で100%、120%の力でプレーすることが出来なくなるのであれば、身を引くべきなのではないかと思いました。

 

なので、ここで引退をし、今後は何か夢や目標を持って生きている人を応援、サポートしていけるようにしたいです。」(原文ママではないです。僕の解釈含む)

 

 

 

涙が止まりませんでした。

 

 

 

9年間見続けて見慣れたはずのその人が、

見慣れない場所で、見慣れない格好で

 

でも、いつも通り格好良くて。

 

僕なんか比べようもないほど絶望したはずの赤星選手が、

涙も流さず毅然とした態度で

 

「(引退の原因となった)ダイビングをしたことに後悔はないです。ただ取れなかったことが悔しいです。」

 

と言っている姿を見て

僕は一体何をしているんだ、と。

たかが1度や2度、夢に敗れただけで不貞腐れて不幸ぶって…

そんな自分が情けなくて。

 

 

 

 

 

それから僕は実家を飛び出して

 

漫画を描き始めました。

 

いや、着地が意味わからないのは百も承知です。笑

なんでも良かったんです。

なんでも良いから目的を持って生きていこう、と。

いつの日か、赤星選手に会って胸を張って感謝の言葉を伝えられるように頑張って生きていこう。

 

そう思ったんです。

それから、漫画を頑張って新人賞を頂いて、

まぁそこから先は鳴かず飛ばずなのですが

それでも、あのどうしようもなかった時期に比べて少しはマシな人間になれてるかなぁと思います。

 

あれから9年近く経ちました。

 

相も変わらずスポーツ観戦は大好きです。

相も変わらず赤星選手が1番好きなスポーツ選手です。

現役を追いかけることが出来て本当によかったです。

 

赤星憲広選手

ありがとうございました!

 

 

 

 



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僕と赤星憲広(2)

その日は突然やって来ました。

 

2009年  12月9日  阪神タイガース  赤星  電撃引退

 

僕、その時TSUTAYAにいたんです。

何を借りようとしてたかとか全く覚えてないんですけど、CD見ていた時に

友達からほぼ同時にメールが5、6通。

2つ折り携帯を開くと、ロック画面の通知に

 

「おい、赤星引退だって。」

 

全員同じ内容で来て。

僕が赤星選手を好きなことを地元の友達はよく知っていたものですから連絡して来たんだと思います。

サンドウィッチマンじゃないですけど、

 

「ちょっと何言ってるかわかんない。」

 

そんな心境でした。

本当に何言ってるのかわからなかったんです。

 

いや、だって最近キャッチボール再開したって記事出てたじゃん。

来年は頭からいけるって記事出てたじゃん。

その記事見て安心したもん。

慌てて携帯にログインしたら、ホーム画面にYahoo!のニュースが流れて来て

1番最初でした。

 

阪神タイガース  赤星 電撃引退!!

 

もうそれからはよく覚えてません。

17時だったかな?

引退会見するとか発表が出ていたのですが、全く見ようとも思えず…

見たらもう二度と赤星選手を見ることが出来なくなる気がしたんでしょうね。

とにかく、その事実を受け入れることが出来なかったんです。

 

いきなり、個人的なことに話を逸らしますが

僕、その時ニートやってたんです。

 

やりたいことがあり高校卒業して、専門学校に通っていたのですが

その学校が大人の事情で廃校になりまして…

泣く泣く実家に帰っていたんです。

それが、2009年の春でした。

いや、もちろんそこからもう一度頑張って夢を目指すってことも出来ました。

ただ、当時の僕は不貞腐れて、何をするにもやる気が出なくて…

 

バイトして、友達と飲み行って、

家に帰って1人でいると死にたくなるほどつまらなくて。

「生きるって退屈だな…」と。

 

だからって別に死のうとか思っていたわけではないですよ?

ただ、カッコつけとかではなく結構本気でそんなこと思ってる「子供」でした。

 

でも、

それでも赤星選手の試合結果だけは見ていたんです。

ずっとそれをして生きていたから。

 

歯を磨く。

ご飯を食べる。

寝る。

赤星選手の試合結果確認。

 

僕にとっては全部同じようなことでした。

それを9年間続けてたんです。

それが急に終わったんです。

 

当時、赤星選手33歳。

まだまだ、プロ野球選手として第一線で活躍出来る年齢です。

同い年の広島カープ新井貴浩選手が今年41歳で引退です。

引退の理由はダイビングキャッチを試みた際に脊椎を傷めたことが原因でした。

まぁあと5年は確実に見られるだろうと思っていた僕は

引退なんて全く覚悟をしていなかったものですから、

後ろから脳天を思いっきり殴られたような衝撃でした。

 

大袈裟に聞こえるかと思いますが、

当時、目的もなくダラダラと生きていた僕にとって、

赤星選手は数少ない「生きる目的」でした。

本当にそれくらい追っかけていたんです。

 

そして、それを失った僕は更にニートを深めることになりました。

 

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僕と赤星憲広(1)

初めて見た日を忘れもしません。

 

2001年4月3日。

 

当時、僕は毎日の野球中継を見るのが何よりも好きでした。

親がいない間は自由にテレビを観ることが出来たので

家にあるスカパーやらBSやらを駆使して、1球ごとにチャンネルを変えて野球中継を楽しむ、

そんな少年でした。

 

その日も同じだったんだと思います。

 

僕はホークスのファンなものですから、ホークス戦を中心に

色々な試合をリモコン片手にテレビの前で観ていました。

どこぞのスポーツライターか、というくらいチャンネルを変えながら観ていた僕が

その瞬間を観ることが出来たのは「運命」だったのだろう。

と今でも都合よく思っています。

 

 

阪神タイガース  赤星憲広  プロ初盗塁

 

 

一瞬でした。

鶴田投手が投げた瞬間にスタートを切った赤星選手が2塁に滑り混んでプロ初盗塁。

 

「速っええぇぇぇぇ!!かっけえぇぇぇ!!」

 

テレビの前で叫んだのを今でも覚えています。

「足が速い」というのはいつの時代も子供にとっては憧れで、

「赤星」という珍しい名前や、「背が小さい」というのも重なって(僕も子供の頃から小さかったので)少年が惚れ込むには十二分の理由がありました。

 

それから野球観戦の仕方が変わりました。

 

赤星選手の打席の時は必ず、赤星選手の打席だけを見るようになり、

赤星選手が塁上にいる時はイニングが終わるか、赤星選手が塁上からいなくなるまで

チャンネルを変えなくなったんです。

そのおかげで、

1球ごとの駆け引きや、塁上での駆け引きの楽しさやプロの技を覚えていったように思います。

 

ただ、毎日野球観戦が出来たわけではないんです。

両親はまぁ、厳しかったんですかね。

テレビ自体をあまり見せてはくれませんでしたし、特に母はスポーツ観戦がさほど好きではなく

「時間の無駄」

といってあまり見せてはくれませんでした。

そして両親は大体19時前には帰宅していましたので、野球観戦が出来たのは大体1時間程度です。

赤星選手の打席も1打席、運が良くて2打席ほどしか見られませんでした。

 

当時は携帯など持っていませんでしたし、自分の部屋にパソコンやテレビなどもありませんでした。

ですので、毎日新聞で確認していました。

 

それも、父が朝早く新聞を持って仕事に向かっていましたので

朝刊で前日の結果を知ることは叶いません。

 

では、どのように結果を確認していたかというと

父の帰宅後、持って帰って来た朝刊をこっそり観て結果を知ることが多かったです。

 

要するに、1日経ってる試合結果を観て一喜一憂していたんです。

ですが、そうまでしてその人を追っかけていました。

ここまで書くと、

「あー、コイツ。ホークスファンから阪神ファンに変わったんだ。」

と思われてしまいそうですが、違います。

 

ずーーーっとホークスファンです。

 

ホークスをずっと応援しているんです。

ホークスが勝てば喜ぶし、負ければテンションが下がります。

ただ、阪神は負けてもいいんです。

赤星選手さえ活躍してくれれば。

赤星が打った、走った。と、知ればば喜ぶし、

赤星が5タコ。と知ればテンションが下がる。

だから2003年の日本シリーズは困りました。

 

ダイエー阪神

 

10月まで好きなチームと好きな選手が見られる喜びはありましたが

赤星選手には活躍して欲しい!

でもホークスに勝って欲しい…

 

そんな複雑な感情でテレビの前に座っていました。

チャンスで赤星選手に打席が回った時などは

 

「打てー赤星ー!」

 

とか言いながら、赤星選手が本当に打とうもんなら

 

「おい、なに打たれてんだよ!○○!」

 

と、投手にキレるという、ブラック企業の上司さながらの理不尽さでした。

ですので、出来れば阪神日本シリーズには出てこないでくれ、と思ったものです。

まぁ最も、

交流戦が始まってからは毎年同じようなことを繰り返していたのですが。

 

そんな毎日でした。

そんな毎日が今もまだ続いていると思ってましたが、

あの日、急に終わりを告げました。

 

 

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